同人作品評(6月号) 中山 世一
この「雉同人作品評」を書かしていただくのもこれで5回目となる。こうして永く作品を書いていると俳句のこともさることながらいろいろなことが分かってくる。俳句は5・7・5わずか17文字であるが、なかなかに侮れない文学であることが分かってくる。勿論書き手のこともいろいろと分かってくるであろう。評を書くということはやはり覚悟のいることである。
一菜の苦きもの添へ春の膳 中野 はつえ
具体的に山菜の名は出していないがよくわかる。読者は自分の経験から、楤の芽かな、蕗の薹かな、などと想像する。それだけでも唾液が出てきそうである。この句、省略がよく効いていて無駄な言葉がないからこそ味わえるいい句である。ご馳走もさることながら、俳句作品そのものも贅沢なもののような気がする。
被爆土手雀隠れとなりゐたり 川口 崇子
「雉」には広島の人が多いからか、原爆に関する句が多いように思う。今月も何句かあったが、この句に一番注目した。それは「雀隠れ」という季語のためである。原爆の落とされた当時、百年は植物が生えてこないと言われたそうである。幸い翌年にはいろいろな草の芽が映生えてきてくれた。被爆した人々にとっては何と嬉しかったことであろう。あるいはそんな余裕はなかっただろうか。この季語、草でありながら「雀」という言葉を含んでいる。また、「隠」という言葉にも何か訴えてくるものが感じられる。
昼の月白し芽吹きの枝の先 川口 崇子
この句も、一見地味なようであるが一瞬の景をよく捉え、表現できていると思った。
花桃の影に鍬入れ土均す 深海 利代子
この句も情景がよくわかる。情景だけではなく手触りが感じられる。やはり「花桃」という季語がいいのだろう。その花桃の落とす影の土が耕されているのである。単に見たというだけではなく、作者は自ら鍬を取っているのであろう。それは「鍬入れ」という言葉から判断できる。
小さき渦巻きては解き芹の水 深海 利代子
この句も微小な景ながらしっかりとモノを見たうえで作られている。ただ惜しいのは「解き」という言葉である。 「ホドキ」と読むのだろうが、それは能動形である。「解け」(ホドケ)であればより自然に感じられる。
満開の花に遺影を向けてやり 上原 カツミ
かつてこのような句は沢山詠まれてきたに違いない。亡き人にも今年の花を見せてやりたいと思うのは日本人なら誰でも持っている心である。なぜこの句に心を惹かれたの か。やはり素直に詠んだ作者の心が伝わってきたからではなかろうか。技巧とか上手いとかを超えた問題であるように思われる。
振り向けばはにかむ少女木瓜の花 上原 カツミ
かつての私の師匠(波多野爽波)には「少年」や「少女」という言葉を使ってはロクな句ができないと言われたものである。多分漠然とした言葉よりも、より具体的な言葉を 選べということであろう。しかし、この句はそう言った師の言葉を否定してしまった。見事に決まっているのである。それは「木瓜の花」という季語のせいであると思っている。
泥出づる慈姑にほのと海の色 伊藤 芳子
慈姑とはなかなかにお目にかからない季語である。この作品、上手く慈姑をとらえて上質な作品となった。泥の中から掘り出した慈姑、言われれば確かに青みがかっている。それを海の色と捉えたのが詩心であろう。
ばら蒔きのままのばらつき麦青む 伊藤 芳子
この句も麦蒔きの様子、麦の芽の様子を過不足なく捉えている。種も蒔き方、麦の芽の表現などから実際にやった人でなければできない句であると思う。
つちふるや残骸細る座礁船 伊藤 芳子
この句を見てすぐの御前崎のことを思った。五十年位前に見たのであるが、今はどうなっているのであろうか。
内裏雛爪立ちて見る幼かな 濱本 美智子
小さい女の子の姿がよく見える句である。季語の斡旋がいい。「内裏雛」であるから段飾りの一番上に置かれている。小さな子にとっては見づらいのである。遠くから見れば見えるのであるが、そこはやはり子供、すぐ近くで見たいのだろう。
囀や手押しポンプに油注す 清岡 早苗
手押しポンプはよく句材となる。東京でも菊坂や佃島で沢山詠まれている。しかし、油注しのことまで詠まれた句にはお目にかかったことがない。実際に見ていないとできない句である。「囀」という季語も晴天の春空を伝えてくれて適切である。
夕暮れの分校跡や雀の子 清岡 早苗
この句では分校が懐かしい。雀の学校にも想像が飛んで行く。わが町にも分校があり、かつての卒業生が大事に守っている。この作者、今月好調と見受けた。
通信簿花見の莫産に広げをり 石井 和子
一読、にやりとしてしまった。きっと成績がいいのであろう。親戚や知り合いが集まっている花見の席にまで通信簿を持ってくるとは......。ひょっとすると学校からそのまま父母がいると知っている花見の席に直接来たのかもしれない。
亀鳴くやとろとろ煮込むビーフシチュー 西村 千鶴子
「亀鳴く」や「雪女」など現実に無い季語は苦手である。しかし、この句はそんな季語を上手に使って作られている。まさに、「亀鳴く」という季語が適切であり、苦手な季語も工夫して使えばいいんだと教えられた句である。
ぬかるみを跳びてその先麦青き 松本 惠和
青麦の穂先が目の前に見えてくる句。「跳びてその先」 という間髪を入れない呼吸がそうさせてくれるのだろう。「青」という言葉も鋭さが迫る一要因である。
女雛抱き黒髪なづる異郷の子 田口 満枝
「異郷の子」とあるが、私は勝手に「異国の子」と読んでしまった。異郷にも他国・外国という意味があるから間違いではないであろう。どこの国の女の子にとっても人形はいいものであるらしい。抱いているのが、ただの人形でなくお雛様であるところが、日本人と違うところか。なぜか、青い目の人形のことを思い出してしまった。
下校子の狭き抜け道つくしんぼ 福田 澄代
わかる、わかる。藪や垣根や路地など子供の抜け道はどこも狭い。この句、「つくしんぼ」という季語の使い方がいい、また平仮名で表現されているところにも細かい気配りが感じられる。
桃の花繋ぐ子の手の湿りかな 中村 育野
この句も季語の使い方が上手い句である。桃の花はどこか厚ぼったく湿った感じがある。また子供の手もどこかしっとりとしており、この季語は子の手の湿りとよく合っていて、読者にも手のぬくもりやしめりが伝わってくる。
擦り切れしランドセル負ひ卒業日 三村 三和子
「擦り切れし」というところがいい発見。感傷ではなく、モノに六年間の小学生活を語らせているところがいい。
今月は触れたい句が沢山あったが、触れることができなくて残念。次のような句にも注目した。
剪定の小枝を嘴に鳩飛べり 德永 絢子
波を切り船団戻るいかなご漁 柴田 惠美子
幹太き柿の古木の芽吹きかな 田中 忠夫
鵜の塚や桜吹雪の只中に 田中 生子
スイートピー初めて化粧する子かな 山下 邦子
ひと息を入れて反り身の茶摘笠 山本 逸美
若布刈背負子へしづる海の水 下見 博子
池端の朽葉の蔭や土蛙 新長 麗子
晴天や黒衣の僧の蓬摘む 東田 基子