俳誌「雉」5月号より
同人作品評(3月号) 中山 世一
遠く近く沼舟見えて蒲団干す 永田 由子
作者は船橋市の方であるからこの沼は印旛沼であろうか、手賀沼であろうか。どこと限定する必要もないが、沼の近くに何軒か家がある、そういう水辺を想定した。その家は作者の居る側にあり蒲団が干されている。今、干す動作をしていると取ってもいいだろう。舟は沖に散らばり岸に繋がれている。冬景色であるがどこか春が近いのどかな景である。「蒲団干す」という季語は風もあまりない、日当りのいい日を内部に持っているから沼も静かであろう。「沼舟」という言葉も柔らかさを感じさせてくれる。
冬耕や暮れてなほ打つ鍬の音 永田 由子
この句、一読したときはよく分からなかった。それは「や」で一旦切って「暮れてなほ打つ鍬の音」と読んだからである。したがって鍛冶屋が鍬を打っているのかと思った次第。 でもやはりおかしいと思いなおして、鍬の音は耕しの音だと気づいた。確かに「田を打つ」「畑を打つ」とはよく言うが、まだ何分かは鍬の修理かななどと思う気持ちが残っている。「や」の使い方は難しい。俳句は読者にサービスをする必要はないが、分かり易くあってほしい。
朝まだき新聞までの雪を掃く 内藤 英子
南国の土佐育ちで、千葉県に住む私には大雪の地の生活経験がない。この冬は北海道や北陸は大雪であったと度々報道されたが、その大変さを体で感じてはいない。この句、作者は広島の人であるが、雪の朝の大変さを肌で感じるように読む者に伝えてくれる。「新聞までの」という簡潔に叙された表現にかえって心が惹かれる。玄関から新聞受けまでにか小道があるのだろう。新聞を取るためにでさえ、雪を掃いてゆかなくてはならなかったのである。 雪の朝の大変さがよく出ている句である。
せきれいの羽音聞こゆる寒さかな 林 さわ子
せきれい、すなわち石叩きは秋の季語であるが、この句では冬の石叩きである。私の家の近くでもよく石叩きは見かけるが、いまだにその羽音を聞いたことがない。小さな鳥であるから本当に小さな音であろう。作者はその羽音を聞いたのである。したがってこの寒さはしんしんとした静かな寒さである。人の心が研ぎ澄まされるような寒い朝、そして何でも受け入れるという心がなければこの音は聞こえまい。感覚の鋭い句である。このほかにも
海神や冬菜の太る詣で道
あをあをと元旦の藪濡れゐたり
など力作が見られた。
遠くまで行く冬川の水鏡
ところでこの句、遠くまで行くのは作者であろうか、川の水であろうか、水鏡であろうか。鑑賞に迷いの生じた句である。
裏山に梟の声坊泊り 梅園 久夫
子供の頃は八幡様の杜で鳴く梟の声をよく聞いたが、最近ではあまり耳にしない。よっぽど山奥に行かないといないのだろう。あの声は小さい頃には不気味に思えたが、大人になってみると不思議な奥深い音に感じる。「坊泊り」とあるから作者はどこか旅の宿で聞いたのである。羽黒山か吉野かそれを想像することもまた楽しい。山に包まれた奥深い修業の地の坊を思う。
あまびえの絵の油染み焼鳥屋 藤戸 紘子
「あまびえ」のことはよく知らなかったが、コロナ流行のおかげで知ることができた。さすが八百万の神の国日本である。最近はあまびえ飴というのもできており、先日の吟行の時に句友から頂いた。この句、焼鳥屋の壁にあまびえの絵が貼られているのであろう。コロナの影響をまともに受けて商売が苦境に立たされているのは焼鳥屋やおでん屋など一杯飲み屋である。作者はあまびえの絵だけでなく、敏感にその絵についている油染みにも気が付いた。いかにも焼鳥屋にありそうな一点景であるが、焼鳥屋の主人の気持も分かる人間味のある句である。「油染み」がどこか悲しい。
枸橘の棘にひかりや寒四郎 藤巻 喜美子
カラタチは蜜柑の仲間であるから常緑樹であるが、なぜ冬に棘が目立つ。少し葉が落ちて隙間ができるのであろうか。結構鋭い棘である。この句、その棘に当たる光りを詠んだ。「枸橘の棘にひかりや」までは省略の効いた表現でいい句であると思った。しかし季語「寒四郎」でちょっと引っかかった。寒四郎は寒に入って四日目のことであるが、擬人化である。同じ寒の季語でも作者はなぜ寒四郎を持ってきたのであろうか。もっとストレートに寒を表現してもよかったのではないだろうか。
大屋根の雪崩に軒の埋もるなり 中山 ち江
これは雪国の句。「大屋根の雪崩」だから、お寺などの 大きな屋根から雪が雪崩れてきたのだろう。その雪がどさどさと軒の埋もれるほど落ちてきたのだ。あるいは同じ建物でなく、すぐ前か隣の別の建物かもしれない。コトを直接的に言い表しており、迫力のある句である。「なり」にも作者の気持ちが込められていて、あきれている様子が窺われる。
冬暖か河津のさくら苗届く 高見 宜明
前書きに「西日本豪雨被災地」とある。「冬暖か」だから冬の初めか、終わりごろだろう。知り合いか友人から河津桜の苗が届いたのだ。作者が被災者かどうかは分からないが、被災者と同じ目線で捉えられている。この句、何といっても「河津のさくら」がいい。河津桜は早咲きの桜、どこよりも早く花が開く。その苗を届けるということは、 春=希望を届けるということでもあろう。もし作者が被災者であれば十分に送り手の意を汲み取っている。
ぺらぺらと風に揺れをり古暦 栗栖 英子
「ぺらぺら」というオノマトペを使ってじつにうまく古暦を表現した。まさにモノ俳句であるが、作者の言わんとすることがよく伝わってくる。まず、手触りとしての薄さ軽さである。古暦だから恐らく一枚しかないのだろう。また、この一年間を過ごした作者の自嘲気味な反省も見えてくるようである。
亡き夫に遍路宿より賀状来る 山田 智子
今は亡き人に手紙が来るという句は時々見かけるが、この句のいいところは「遍路宿より」にある。かつて作者はご主人と一緒に遍路巡りをしたのであろう。その時泊った宿から、年賀状が来たのである。四国遍路のお接待の心が垣間見られる句である。
サンタクロース来ると窓開け子ら眠る 中川 章
昔はサンタクロースは煙突から来るものと決まっていた。では煙突のなくなった現代の子はどこから来ると教えられているのであろうか。誰にも教えられず、窓から来るに違いないと考えた、けなげな子供の寝顔が目に浮かぶ。
十二月どんと浅間の近づきぬ 市川 好子
十二月の浅間山はもう雪山であろう。そうでなくても深秋から初冬にかけては空気が澄んでいる。この句、思い切って「どん」という言葉を使って成功した。また「近づきぬ」もいい表現である。まさに目の前にどんと浅間山が近づいて見えるのだ。
夜神楽へ毛布抱へて集ひたり 鷹野主 政子
私は神楽は見たことはあるが、夜神楽を見た経験はない。この句、「毛布抱へて」に実感がある。夜の寒さを知っており、夜神楽の長丁場をわが身を毛布にくるんででも見るという覚悟が見える。