「雉」北陸地区のブログ

「雉」句会の活動を公開しています

俳句選評シリーズ3

俳誌「雉」6月号より

 

      同人作品評(4月号)   中山 世一

 

 私は若いころから師や先輩たちから写生ということを叩き込まれてきた。そのためか、どうしてもモノに即した句を採ってしまう傾向にある。長い経験から、俳句は勿論写生句やモノ俳句ばかりがいいのではないことは知っている。しかし、五感を通してモノの存在に触れる句、手触りの感じられる句に出会いたいと願っている。それは必ずしも快い、口当たりのいい俳句ではないのである。

 

紅梅のぶつかり合うて咲きにけり   河野 照子

 「ぶつかり合うて」がいい表現だと思った。内容は風に揺られながら芽を出し、蕾が膨らんでくると蕾同士がぶつかり合いながらということであろう。咲いている今もぶつかり合いながらかもしれない。枝と枝、花と花であるがまるで兄弟が競い合い、争いながら成長しているようである。生き生きとした表現であり、梅の木の生命が感じられる。

 

朱の樽に一杓づつのお水取   栗原 愛子

 タイトルに善宝寺とあるから、ネットで調べてみた。立春恒例の行事としてお水取りが行われている。したがってこの句の「お水取」は東大寺二月堂のお水取りではない。それは「朱の樽」という言葉からも予想された。でも山形県鶴岡市地方では立春の立派な季語なのであろう。このように地方独特の季語があり、それは俳人協会の『○○吟行案内』などでも紹介されている。このような地方独特の季語や方言は俳句においても大事にしてゆきたいものである。この句「一枚づつの」という表現により二月堂と違って、多くの人が参加できる行事であることがわかる。

 

伊勢海老を裏返しては商へり   古岡 美惠子

 面白い句である。この句の眼目は「裏返しては」という表現にある。モノをよく見ている。この表現により、伊勢海老ばかりでなく、売っている人の表情や態度、場(おそらく年の市)の雰囲気もよく分かる。詳しく言われてい くても読者がこのように想像できる句はいい句である。

体毛を光らせ蜘蛛の凍るかな  古岡 美惠子

同じ作者の句であるが、この句にも作者の目が感じられる。

 

早梅や父母に挟まれ二児の墓  森 恒之

 哀れを感じさせてくれる句である。「二児の墓」とあるから、幼くして亡くなったこの父母の子供であろう。亡くなったのは戦争か病気かは分からないが...。この句の父母はおそらく作者の父母であり、幼児の墓は兄弟なのかもしれない。「早梅」という季語からはあるすがすがしさも感じられるから、いろんな苦労はあったがこの父母は幸せな一生を送ったのであろう。鎌倉・寿福寺の虚子の墓は白童子(虚子四女)、紅童子(虚子の孫娘)という小さいころに亡くなった虚子の子と孫の墓に挟まれている。

 

雪しまき防災無線切れぎれに  新谷 亜紀

 雪国の様子がまざまざと分かる句である。今年の冬、ニュースで雪国の暴風雪が伝えられた。防災無線は災害通報のために各家庭に設置されているものであろうか。私の実家(高知県)にも津波のためのこのような無線装置が置かれている。その装置に雑音が入ったり、切れぎれに音が聞こえたりするのである。大雨の時でもそうであるが、雪 のしまく時はもっとひどいに違いない。素直に事態を叙しているが、雪国の生活の一面がよくわかる句である。

 

真白な蕾のままや菊枯るる   寺田 記代

 この句にも、しっかりとモノを見ているな、と感心した。 私も実際にこんな景を見たことがある。菊は冬になると蕾をつけたまま枯れるのである。この句は「真白な」という言葉によって、まだ若い命、純真ということなどを読者は思う。作者は必ずしもそんなことは意図せず、ただシンプルに作っていると思うが、単にモノに語らせているところがいいのかもしれない。

 

一筋の草噛んでゐる氷柱かな  源 伸枝

 細かい描写のように思われるかもしれないが、表現はそうであるとしても内容は深い。自然の摂理が淡々と叙されているが、地球の自然そのものが生き物のように感じられる。この一筋の草は青々とした草に違いない。でないと目につきにくいし、生きている感じがしない。氷柱は小さな氷柱だと思う。一本の草を噛む(凍って挟み込む)のだか ら大きな氷柱とは思えない。冬の早朝などには草つららという草の先にチョンとできる氷も見ることができる。

 

ふつふつと湯気まで青き七日粥  山岸 昭子

 七草粥の句である。この句のいいところは「湯気まで青き」という表現にある。おそらく本当に湯気が青いわけではなくそう感じたのであろう。それは鍋に入れた七草が青々としているからである。作者はその青を強調したかったのに違いない。「食べ物の句を作るときは、食欲をそそるように作るべきだ」とある人は言っている。まさにこの句は食欲をそそってくれる。

 

倶利伽羅の闇の初護摩太鼓かな  海野 正男

 木曽義仲と平家の戦いのあった倶利伽羅峠、牛の角に松明をつけて平家の方へ追いやったという合戦は有名である。今は高速道路で行っても倶利伽羅という地名が出てくるし倶利伽羅という駅もある。初護摩だから新年の護摩で ある。倶利迦羅不動寺護摩であろう。この句、「倶利伽羅」という地名がよく働いている。闇に響く護摩の太鼓や音声は倶利伽羅峠の合戦を思わせてくれる。

 

凍土へ踏み出す鶏の爪太し  大葉 明美

 「爪太し」がいい発見。鳥は恐竜の子孫と言われているが、その足や爪を見ると納得できる。凍土だから凍って固い土にむんずと鶏の爪が踏み出したのだ。いかにも力強い。爪の先は固い凍土に食い込んでいるのだろう。

合掌し耕土を均す鍬始  大葉 明美

同じ作者の句、農業に従事している人だろうか。「合掌し」という言葉に心から土に感謝していることが読み取れる。

 

四尺の雪の真青に透けてをり  生田 章子

 私は高知県育ちで、いまは千葉県に住んでいる。だから雪国の経験がない。我々が雪を美しいなどというと雪国の人達に怒られるという話をよく聞く。さて、この句の作者は富山県、雪国の人である。私はこの句の「雪の真青に透けてをり」を美しく神秘的と感じたのだが、本当はどうなのであろうか。作者は恐ろしいと感じているのであろうか、それとも青く透けてきて―ということは春が近くなってきて―安堵しているのであろうか。

 

粉雪の乗りたる葉書手渡され  山崎 和子

 優れた写生句だと思った。手触りの感じられる句である。葉書を渡してくれたのは家人であろうか、それとも郵便配達人であろうか。「粉雪の乗りたる葉書」だから郵便受けから出す、もしくは手渡される、そのちょっとした間に葉書に粉雪が乗ったのだ。それを見逃さずに一句にまとめた腕前は評価されていいだろう。しっかりとモノを見ていれば句ができるわけではない。本当に句にすべき焦点を切り取らなくてはならない。また、そうしたからいい句になるわけでもない。いい言葉を授からなくてはならない。いい言葉を授かってもまだ句は完成しない。無駄な言葉をそぎ落とさなくてはならないのだ。しかし、この句はそんな難しいことは抜きにすっとできた句のように思われる。本当はそんな句が一番いいのだろう。

 

次の句にも触れたかったが紙数が尽きてしまった。

 

厳寒や手の切れさうな空のあを 川口 崇子

笹子鳴く生傷舐めて竹細工   後藤かつら

群猿の足跡埋むる雪時雨    為田 幸治