この度、オンライン俳句図書館では、
周知の目的も含めて、クラウドファンディングに挑戦しました。
ただ、資金調達という意味合いから、
「雉」のサイトではないことを明らかにするため、
「雉」HPからバナーボタンを外すことにいたしました。
皆様にはご理解いただいた上で、
ご支援をいただけましたら幸いに思います。
こちらから、お越しいただけます。
お待ちしております。
この度、オンライン俳句図書館では、
周知の目的も含めて、クラウドファンディングに挑戦しました。
ただ、資金調達という意味合いから、
「雉」のサイトではないことを明らかにするため、
「雉」HPからバナーボタンを外すことにいたしました。
皆様にはご理解いただいた上で、
ご支援をいただけましたら幸いに思います。
こちらから、お越しいただけます。
お待ちしております。
田島和生主宰選
〈特選〉
色褪せしトーテンポール小鳥来る 度山 紀子
百畳の網を繕ふ鯊日和 後藤 桂子
朝顔の種に艶めく産毛かな 福江ちえり
〈並選〉
立山に懸かりし大き望の月 小林 亮文
新松子根元に青い三輪車 生田 章子
産卵の翅のはばたき山繭蛾 福江 ちえり
旅篭(はたご)てふ文字の褪せしや秋時雨 後藤 桂子
棟上げの掛矢の音や秋高し 小林 亮文
突堤に男の座る鯊日和 辻江 恵智子
唐門の金箔光る秋の天 生田 章子
ずわい蟹競りの始まる声高し 小林 亮文
秋波へ走つて棒を拾ふ犬 佐瀬 元子
鰡とんで金石港の昼下り 宮崎 惠美
爺婆の似顔絵飾り敬老日 度山 紀子
枕辺の電子音鳴る夜寒かな 宮崎 惠美
秋彼岸沖に広がる茜雲 山岸 昭子
赤蜻蛉下校の鐘の流れけり 中山 ちえ
稲雀投網打ちたるごとく降り 海野 正男
まだ青きどんぐり仰ぐ幼かな 佐瀬 元子
松籟の安宅の関や秋の暮 後藤 桂子
狐雨通りて能登の晩稲かな 辻江 恵智子
同人作品評(7月号) 中山 世一
桟橋へ八十八夜の波しぶき 井上 久枝
「波しぶき」によってこの桟橋は海だろうと想像した。波しぶきによって作者は近い夏を感じたのだ。この季節の置き方には新鮮さを感じる。見事に晩春=夏近しの海辺の景が描かれている。
雉子の声弓道場を貫けり 浜田 千代美
季語の働きの優れた句である。弓道場と言えばまず静かな所である。そして緊張感が漂っている。静寂の中に時々弓弦の音、矢の飛ぶ音が聞こえる。そこに雉の声。あの甲高い声は壁などもを突き抜けるようだ。場の設定もよく、「貫けり」という言葉の斡旋も適切である。
糸檜葉に八十八夜の雨雫 荒井 八千代
糸檜葉そのものをよく知らないが、辞書で調べると椹の仲間らしい。八十八夜のころの雨はもうしとしととした春の雨ではない。おそらく強い雨、その雨集は糸檜葉の濃い緑の葉の先に光っているのだろう。季節感のよく捉えられた句である。
渡り来て古巣に眠る燕かな 依田 久代
燕のことをよく見ている。燕は島伝いながらも何千キロかを渡り日本に到着する。着いたばかりのころの燕は疲れきってぼろぼろであろう。この句、何でもないように見えるが、「渡り来て」に作者の心が感じられる。燕は疲れ果てて眠っているのであろう。 独活の香や厨の隅に神祀る 依田 久代
本当に独活の香の感じられる句である。厨の神棚の下の暗がりに採ってきたばかりの独活が置かれているのだ。
棟上げの祝詞上ぐるや揚雲雀 小林 亮文
家の新築の棟上げ、めでたい日である。勿論晴天が望ましい。念願かなって春の青空、雲雀がよく鳴いている。揚雲雀であるから、空の高いところで鳴いている。この家の未来を言祝いでいるかのようである。揚雲雀という季語はこの場面に最適である。
電線に楽譜めく鳥春うらら 小林 亮文
ベテランの方とお見受けするからちょっと一言。一つ目は電線に止まっている小鳥が楽譜のようであるという比喩はよくあり、だれでも思いつくことである。ここに何か新しい発見が欲しい。二つ目は、「春うらら」という季語。「うらら」があれば春は要らないのではないか。新しい歳時記には載っているらしいが、俳句は短い詩である。できるだけ言葉は節約して使いたい。
雉鳴くや土の匂へる雨後の畑 黒田 智彦
「土の匂へる」が実感である。いくら上手く作っても作者の実感が読者に伝わらなくては成功した作品とは言えない。言葉は「雨後の畑」と続き、より強い土の匂いが感じられる。「雉鳴く」の季語も適切に季節感を伝えてくれている。雨ののちの暖かい日である。
みどり児に前歯が二つ桃の花 黒田 智彦
庭下駄の緩き鼻緒や竹の秋 黒田 智彦
この二句にも注目した。しっかりとモノを見る訓練がで きている人である。
藁しべを確と摑みて花ゑんど 今田 舞子
一読、「いいなあ」と思った。つまらないようなことでも見逃さずに作者は見ている。見ることによって普段は気づかないことに気づくのである。いわばちょっとした発見であるが、その発見は感動でもある。豌豆の蔓がちょいと伸びて藁しべを摑んでいる。添竹ではなく「藁しべ」というところが作者の発見である。
銘水の柄杓でこぼこ百千鳥 木村 浩子
よく見かける景であるが、ここまで表現した作品は知らない。山道や遍路道などを歩いているとよく清水の脇に柄杓が置かれている。この句では「銘水」だからよく人が水を汲みに来る所であろう。この句のいいところは「でこぼこ」と思い切って、俗っぽい言葉をつかったところ。この言葉によりアルミ製の使い込まれた柄杓ということが分かる。季語「百千鳥」もこの銘水を愛する人々を屈託なく囃しているようである。
ざぶざぶと膝で波押す石尊採り 大片 紀子
「膝で波押す」がいい表現。実際に見ていなければこんな言葉は出てこない。この表現により、石尊採りは川に入って採っていること、水の深さは膝くらいまであるということ、水の中を歩くことが大変だということなどが分かる。
栄螺焼く潮のかをりの漂ひて 大片 紀子
栄螺を焼けば潮が吹きだしてきて潮の匂いがする。誰でも見て句にできる景である。したがって、石尊採りの句のようには実感が伝わってこない。もう一歩踏み込んだ発見が望まれる。
鯉のぼり摑み童の仁王立ち 坂口 昌一
立ち始めたばかりの子が鯉のぼりの尻尾を持って顔を真っ赤にして、やっと立ち上がったのであろう。見ている親や爺さん婆さんたちはやんやの喝采である。非常にリアルに表現されたいい句である。
卒業子つひの一人へ大拍手 下見 博子
最近は都会でも学校の統合や閉鎖が多い。この句は田舎の、ひょっとしたら島の学校であろうか。たった一人の卒業生である。村の、島のみんながこの子の将来を応援している。大拍手とはいいながら、やはり少し淋しさの感じられる句である。
金堂へバケツで運ぶ甘茶かな 村上 勢津子
面白い句である。バケツで甘茶を運ぶとは。大寺であればこんなこともあろう。お寺側としてはあまり見られたくないところであるが、俳句作りはつい裏側まで覗いてしまう。探究心は大事であるが、顰蹙を買われない程度にしたいものである。
畑中の塔婆の古び桃の花 本木 紀彰
畑の中にはよく先祖のお墓がある。先祖とともに土地を守ってきているのである。塔婆や墓は古びても桃の花は毎年咲き、この人たちを見ている。
鶯に地下足袋はいて畑へ行く 中岡 ながれ
「地下足袋はいて」に実感がある。嘘がないということである。毎日の繰り返しの、なんでもないようなことが、季節を感じることによって句になるのだ。
耕やとなりの国に近く住み 中岡 ながれ
「となりの国に近く」とは県境あるいは昔の藩の境に近く住んでいるということであろう。簡単に気づくようでなかなか気づくことができないことである。
野良着継ぐ雨の八十八夜かな 溝西 澄恵
「野良着継ぐ」がいい表現。雨の八十八夜、湿った薄暗い中での作業であろう。先祖も父も母もしてきたことを作者は何の疑いもなく行っている。都会の忙しい仮想現実に近い世界とは違い季節を肌で感じ、モノを手で作る実の世界がここにはある。
次の句にも触れたかったが紙数が尽きてしまった。残念である。
波跡を藻の縁取りて暮遅し 藤井 亮子
筍のまだ濡れてゐる値札かな 佐藤 泰子
回廊の黄砂拭きをり二人 柴田 惠美子
どの子にも大きな空や五月来ぬ 山下 邦子
燕の巣一番札所の軒先に 天野 桃花
仏塔の宝珠まぶしく朝桜 安藤 えいじ
六か月間この欄を担当させていただきました。沢山のいい作品に接することができました。触れられなかった句が沢山あったことを残念に思います。
「雉」誌には虚構でなく実があると感じました。
行き過ぎた言葉にはご海容のほどお願い申し上げます。
(中山 世一)
毎月、「雉」HPでは、
「ネット俳句」の募集を行っています。
お一人 3句まで、無料で投句いただけます。
締切は、毎月月末。
入選句の発表は、翌月10日です。
2021年8月の募集句を公開いたしました。
力作の数々を、どうぞご覧くださいませ。
ネット俳句のページでは、写真形式ではめ込んでいます。
理由は、縦書きとして表示したいからです。
ですが、画像の中の文字情報は、検索できないので、
別のページにて、横書きで記しています。
こちらは、歴代の入選句をすべて公開しています。
これで、入選された方のお名前でも俳句でも検索できるはずです。
ぜひ、試してみてください。
優秀な作品が多くなりました。
投句数もじわじわと増えており、入選がとても難しくなっています。
そのなかでも、悠々と入選される方もあります。
俳句に対する熱意が感じられ、励まされる思いです。
皆様に感謝を申し上げます。
有難うございました。
また、今月もどうぞご応募ください。
お待ちしています。
同人作品評(6月号) 中山 世一
この「雉同人作品評」を書かしていただくのもこれで5回目となる。こうして永く作品を書いていると俳句のこともさることながらいろいろなことが分かってくる。俳句は5・7・5わずか17文字であるが、なかなかに侮れない文学であることが分かってくる。勿論書き手のこともいろいろと分かってくるであろう。評を書くということはやはり覚悟のいることである。
一菜の苦きもの添へ春の膳 中野 はつえ
具体的に山菜の名は出していないがよくわかる。読者は自分の経験から、楤の芽かな、蕗の薹かな、などと想像する。それだけでも唾液が出てきそうである。この句、省略がよく効いていて無駄な言葉がないからこそ味わえるいい句である。ご馳走もさることながら、俳句作品そのものも贅沢なもののような気がする。
被爆土手雀隠れとなりゐたり 川口 崇子
「雉」には広島の人が多いからか、原爆に関する句が多いように思う。今月も何句かあったが、この句に一番注目した。それは「雀隠れ」という季語のためである。原爆の落とされた当時、百年は植物が生えてこないと言われたそうである。幸い翌年にはいろいろな草の芽が映生えてきてくれた。被爆した人々にとっては何と嬉しかったことであろう。あるいはそんな余裕はなかっただろうか。この季語、草でありながら「雀」という言葉を含んでいる。また、「隠」という言葉にも何か訴えてくるものが感じられる。
昼の月白し芽吹きの枝の先 川口 崇子
この句も、一見地味なようであるが一瞬の景をよく捉え、表現できていると思った。
花桃の影に鍬入れ土均す 深海 利代子
この句も情景がよくわかる。情景だけではなく手触りが感じられる。やはり「花桃」という季語がいいのだろう。その花桃の落とす影の土が耕されているのである。単に見たというだけではなく、作者は自ら鍬を取っているのであろう。それは「鍬入れ」という言葉から判断できる。
小さき渦巻きては解き芹の水 深海 利代子
この句も微小な景ながらしっかりとモノを見たうえで作られている。ただ惜しいのは「解き」という言葉である。 「ホドキ」と読むのだろうが、それは能動形である。「解け」(ホドケ)であればより自然に感じられる。
満開の花に遺影を向けてやり 上原 カツミ
かつてこのような句は沢山詠まれてきたに違いない。亡き人にも今年の花を見せてやりたいと思うのは日本人なら誰でも持っている心である。なぜこの句に心を惹かれたの か。やはり素直に詠んだ作者の心が伝わってきたからではなかろうか。技巧とか上手いとかを超えた問題であるように思われる。
振り向けばはにかむ少女木瓜の花 上原 カツミ
かつての私の師匠(波多野爽波)には「少年」や「少女」という言葉を使ってはロクな句ができないと言われたものである。多分漠然とした言葉よりも、より具体的な言葉を 選べということであろう。しかし、この句はそう言った師の言葉を否定してしまった。見事に決まっているのである。それは「木瓜の花」という季語のせいであると思っている。
泥出づる慈姑にほのと海の色 伊藤 芳子
慈姑とはなかなかにお目にかからない季語である。この作品、上手く慈姑をとらえて上質な作品となった。泥の中から掘り出した慈姑、言われれば確かに青みがかっている。それを海の色と捉えたのが詩心であろう。
ばら蒔きのままのばらつき麦青む 伊藤 芳子
この句も麦蒔きの様子、麦の芽の様子を過不足なく捉えている。種も蒔き方、麦の芽の表現などから実際にやった人でなければできない句であると思う。
つちふるや残骸細る座礁船 伊藤 芳子
この句を見てすぐの御前崎のことを思った。五十年位前に見たのであるが、今はどうなっているのであろうか。
内裏雛爪立ちて見る幼かな 濱本 美智子
小さい女の子の姿がよく見える句である。季語の斡旋がいい。「内裏雛」であるから段飾りの一番上に置かれている。小さな子にとっては見づらいのである。遠くから見れば見えるのであるが、そこはやはり子供、すぐ近くで見たいのだろう。
囀や手押しポンプに油注す 清岡 早苗
手押しポンプはよく句材となる。東京でも菊坂や佃島で沢山詠まれている。しかし、油注しのことまで詠まれた句にはお目にかかったことがない。実際に見ていないとできない句である。「囀」という季語も晴天の春空を伝えてくれて適切である。
夕暮れの分校跡や雀の子 清岡 早苗
この句では分校が懐かしい。雀の学校にも想像が飛んで行く。わが町にも分校があり、かつての卒業生が大事に守っている。この作者、今月好調と見受けた。
通信簿花見の莫産に広げをり 石井 和子
一読、にやりとしてしまった。きっと成績がいいのであろう。親戚や知り合いが集まっている花見の席にまで通信簿を持ってくるとは......。ひょっとすると学校からそのまま父母がいると知っている花見の席に直接来たのかもしれない。
亀鳴くやとろとろ煮込むビーフシチュー 西村 千鶴子
「亀鳴く」や「雪女」など現実に無い季語は苦手である。しかし、この句はそんな季語を上手に使って作られている。まさに、「亀鳴く」という季語が適切であり、苦手な季語も工夫して使えばいいんだと教えられた句である。
ぬかるみを跳びてその先麦青き 松本 惠和
青麦の穂先が目の前に見えてくる句。「跳びてその先」 という間髪を入れない呼吸がそうさせてくれるのだろう。「青」という言葉も鋭さが迫る一要因である。
女雛抱き黒髪なづる異郷の子 田口 満枝
「異郷の子」とあるが、私は勝手に「異国の子」と読んでしまった。異郷にも他国・外国という意味があるから間違いではないであろう。どこの国の女の子にとっても人形はいいものであるらしい。抱いているのが、ただの人形でなくお雛様であるところが、日本人と違うところか。なぜか、青い目の人形のことを思い出してしまった。
下校子の狭き抜け道つくしんぼ 福田 澄代
わかる、わかる。藪や垣根や路地など子供の抜け道はどこも狭い。この句、「つくしんぼ」という季語の使い方がいい、また平仮名で表現されているところにも細かい気配りが感じられる。
桃の花繋ぐ子の手の湿りかな 中村 育野
この句も季語の使い方が上手い句である。桃の花はどこか厚ぼったく湿った感じがある。また子供の手もどこかしっとりとしており、この季語は子の手の湿りとよく合っていて、読者にも手のぬくもりやしめりが伝わってくる。
擦り切れしランドセル負ひ卒業日 三村 三和子
「擦り切れし」というところがいい発見。感傷ではなく、モノに六年間の小学生活を語らせているところがいい。
今月は触れたい句が沢山あったが、触れることができなくて残念。次のような句にも注目した。
剪定の小枝を嘴に鳩飛べり 德永 絢子
波を切り船団戻るいかなご漁 柴田 惠美子
幹太き柿の古木の芽吹きかな 田中 忠夫
鵜の塚や桜吹雪の只中に 田中 生子
スイートピー初めて化粧する子かな 山下 邦子
ひと息を入れて反り身の茶摘笠 山本 逸美
若布刈背負子へしづる海の水 下見 博子
池端の朽葉の蔭や土蛙 新長 麗子
晴天や黒衣の僧の蓬摘む 東田 基子