同人作品評(7月号) 中山 世一
桟橋へ八十八夜の波しぶき 井上 久枝
「波しぶき」によってこの桟橋は海だろうと想像した。波しぶきによって作者は近い夏を感じたのだ。この季節の置き方には新鮮さを感じる。見事に晩春=夏近しの海辺の景が描かれている。
雉子の声弓道場を貫けり 浜田 千代美
季語の働きの優れた句である。弓道場と言えばまず静かな所である。そして緊張感が漂っている。静寂の中に時々弓弦の音、矢の飛ぶ音が聞こえる。そこに雉の声。あの甲高い声は壁などもを突き抜けるようだ。場の設定もよく、「貫けり」という言葉の斡旋も適切である。
糸檜葉に八十八夜の雨雫 荒井 八千代
糸檜葉そのものをよく知らないが、辞書で調べると椹の仲間らしい。八十八夜のころの雨はもうしとしととした春の雨ではない。おそらく強い雨、その雨集は糸檜葉の濃い緑の葉の先に光っているのだろう。季節感のよく捉えられた句である。
渡り来て古巣に眠る燕かな 依田 久代
燕のことをよく見ている。燕は島伝いながらも何千キロかを渡り日本に到着する。着いたばかりのころの燕は疲れきってぼろぼろであろう。この句、何でもないように見えるが、「渡り来て」に作者の心が感じられる。燕は疲れ果てて眠っているのであろう。 独活の香や厨の隅に神祀る 依田 久代
本当に独活の香の感じられる句である。厨の神棚の下の暗がりに採ってきたばかりの独活が置かれているのだ。
棟上げの祝詞上ぐるや揚雲雀 小林 亮文
家の新築の棟上げ、めでたい日である。勿論晴天が望ましい。念願かなって春の青空、雲雀がよく鳴いている。揚雲雀であるから、空の高いところで鳴いている。この家の未来を言祝いでいるかのようである。揚雲雀という季語はこの場面に最適である。
電線に楽譜めく鳥春うらら 小林 亮文
ベテランの方とお見受けするからちょっと一言。一つ目は電線に止まっている小鳥が楽譜のようであるという比喩はよくあり、だれでも思いつくことである。ここに何か新しい発見が欲しい。二つ目は、「春うらら」という季語。「うらら」があれば春は要らないのではないか。新しい歳時記には載っているらしいが、俳句は短い詩である。できるだけ言葉は節約して使いたい。
雉鳴くや土の匂へる雨後の畑 黒田 智彦
「土の匂へる」が実感である。いくら上手く作っても作者の実感が読者に伝わらなくては成功した作品とは言えない。言葉は「雨後の畑」と続き、より強い土の匂いが感じられる。「雉鳴く」の季語も適切に季節感を伝えてくれている。雨ののちの暖かい日である。
みどり児に前歯が二つ桃の花 黒田 智彦
庭下駄の緩き鼻緒や竹の秋 黒田 智彦
この二句にも注目した。しっかりとモノを見る訓練がで きている人である。
藁しべを確と摑みて花ゑんど 今田 舞子
一読、「いいなあ」と思った。つまらないようなことでも見逃さずに作者は見ている。見ることによって普段は気づかないことに気づくのである。いわばちょっとした発見であるが、その発見は感動でもある。豌豆の蔓がちょいと伸びて藁しべを摑んでいる。添竹ではなく「藁しべ」というところが作者の発見である。
銘水の柄杓でこぼこ百千鳥 木村 浩子
よく見かける景であるが、ここまで表現した作品は知らない。山道や遍路道などを歩いているとよく清水の脇に柄杓が置かれている。この句では「銘水」だからよく人が水を汲みに来る所であろう。この句のいいところは「でこぼこ」と思い切って、俗っぽい言葉をつかったところ。この言葉によりアルミ製の使い込まれた柄杓ということが分かる。季語「百千鳥」もこの銘水を愛する人々を屈託なく囃しているようである。
ざぶざぶと膝で波押す石尊採り 大片 紀子
「膝で波押す」がいい表現。実際に見ていなければこんな言葉は出てこない。この表現により、石尊採りは川に入って採っていること、水の深さは膝くらいまであるということ、水の中を歩くことが大変だということなどが分かる。
栄螺焼く潮のかをりの漂ひて 大片 紀子
栄螺を焼けば潮が吹きだしてきて潮の匂いがする。誰でも見て句にできる景である。したがって、石尊採りの句のようには実感が伝わってこない。もう一歩踏み込んだ発見が望まれる。
鯉のぼり摑み童の仁王立ち 坂口 昌一
立ち始めたばかりの子が鯉のぼりの尻尾を持って顔を真っ赤にして、やっと立ち上がったのであろう。見ている親や爺さん婆さんたちはやんやの喝采である。非常にリアルに表現されたいい句である。
卒業子つひの一人へ大拍手 下見 博子
最近は都会でも学校の統合や閉鎖が多い。この句は田舎の、ひょっとしたら島の学校であろうか。たった一人の卒業生である。村の、島のみんながこの子の将来を応援している。大拍手とはいいながら、やはり少し淋しさの感じられる句である。
金堂へバケツで運ぶ甘茶かな 村上 勢津子
面白い句である。バケツで甘茶を運ぶとは。大寺であればこんなこともあろう。お寺側としてはあまり見られたくないところであるが、俳句作りはつい裏側まで覗いてしまう。探究心は大事であるが、顰蹙を買われない程度にしたいものである。
畑中の塔婆の古び桃の花 本木 紀彰
畑の中にはよく先祖のお墓がある。先祖とともに土地を守ってきているのである。塔婆や墓は古びても桃の花は毎年咲き、この人たちを見ている。
鶯に地下足袋はいて畑へ行く 中岡 ながれ
「地下足袋はいて」に実感がある。嘘がないということである。毎日の繰り返しの、なんでもないようなことが、季節を感じることによって句になるのだ。
耕やとなりの国に近く住み 中岡 ながれ
「となりの国に近く」とは県境あるいは昔の藩の境に近く住んでいるということであろう。簡単に気づくようでなかなか気づくことができないことである。
野良着継ぐ雨の八十八夜かな 溝西 澄恵
「野良着継ぐ」がいい表現。雨の八十八夜、湿った薄暗い中での作業であろう。先祖も父も母もしてきたことを作者は何の疑いもなく行っている。都会の忙しい仮想現実に近い世界とは違い季節を肌で感じ、モノを手で作る実の世界がここにはある。
次の句にも触れたかったが紙数が尽きてしまった。残念である。
波跡を藻の縁取りて暮遅し 藤井 亮子
筍のまだ濡れてゐる値札かな 佐藤 泰子
回廊の黄砂拭きをり二人 柴田 惠美子
どの子にも大きな空や五月来ぬ 山下 邦子
燕の巣一番札所の軒先に 天野 桃花
仏塔の宝珠まぶしく朝桜 安藤 えいじ
六か月間この欄を担当させていただきました。沢山のいい作品に接することができました。触れられなかった句が沢山あったことを残念に思います。
「雉」誌には虚構でなく実があると感じました。
行き過ぎた言葉にはご海容のほどお願い申し上げます。
(中山 世一)