「雉」北陸地区のブログ

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俳句選評シリーズ 4

「雉」7月号掲載

     同人作品評(5月号)  中山 世一

 

桜の芽少し膨らみ水響く   大前 幸子 

 桜の芽の膨らむことと水の響きには直接関係はないが、どこか深いところで繋がっているように感じられる句であり、そこがこの句のいいところである。句全体で「春が来たよ」と語りかけているようである。「少し」という表現にも効果がある。まだ寒いということ、芽が固いということを読者に想像させてくれるからである。上品な句であり、技巧を凝らした跡が見えないところもよい。

「本当に上手い野球選手は派手な動きをしない」と昔、解説者が言っていたが俳句もまた当てはまるようである。

   山茶花は振り返るたび散つてゐる   大前 幸子 

 こう言われれば確かに山茶花はそんな花である。誰も見ているが誰も表現できなかった、表現しなかった句ではなかろうか。こうして見ると俳句の題材は身辺にいくらでもあるということが分かる。

 

野遊のしばらく覗く川の底   二宮 英子 

 この作者とは東京の句会でたびたび吟行を共にしている。写生の修練を積んだ人であると思う。

 この句、野遊びの一つの景を切り出して句にしているが、野遊びのことや楽しげなことを詠んでいるのではない。ふと傍にあった流れに気づいて覗いているのであるが、この句のポイントは「しばらく」という言葉にある。何か不思議なものが見えたのであろうか。子供が主体であれば魚やザリガニに興味を持って覗いているのであろうが、どうも子供が対象とは思えない。大人が、すなわち 作者がこのような行動をとっていると見ると「何故か?」という興味が湧いてきて、奥の深い句となる。

  突き上ぐる夜更けの地震冴返る  二宮 英子

 先日、夜中に大きな揺れがあった。その地震の句であると思うが、季語「冴返る」がよく働いている。どこか不安が感じられるのである。

 

在りし日の夫の大声鬼やらひ   近藤 弘子

 「在りし日」だが、前の、とか数年前の、ともとれるがここは亡くなられた人の在りし日ととるのが一番素直なようである。今作者は鬼やらいをしながら亡くなられたご主人の大きな声を思い出している。今も後ろから大声で応援してくれているようである。この句は「鬼」という字が大声と繋がり上手く働いている。

 

下萌や色の剥げたる土人形   笹原 郁子 

 下萌の地に置かれているのか、捨てられているのか、作者は土人形に気づいた。よく見るとところどころの色が剥げている。土人形であるからやがては元の土にかえるのである。「剥げたる」という言葉には人間の持ち主の痕跡が感じられ、「土」という言葉には自然の大きさが感じられる。 

  あたたかや川縁に馬連れ出して   笹原 郁子

 作者は弘前の方であるから、この句は厩だしの句であろう。この句ははたから見たのではなく、作者が自ら馬の手綱を引いて行ったように思われる。

 

雪だるま崩せる夜の地震激し   井上 千恵子 

 地震による切迫した様子がよく出ている。人が語るのではなく、雪だるまに語らせたのがいいところ。不注意に読むと、「地震の起こったのは夜なのに何故屋外の雪だるまに気づくの?それって朝見たのでは?」と思ってしまう。この句はそうではないと言っている。作者は思わず外に飛び出して、少し落ち着いた時に壊れた雪だるまに気づいたのである。それだけ大きな揺れであったのである。

  梅東風や木彫の鷽の飛ぶ構へ  井上 千恵子

 この句も面白い。この鷽は鷲替えで手に入れた鷽であろうか。「飛ぶ構へ」によりよくできた彫り物であることが分かる。

 

芋植うる雨あとの畝高くして   山田 初枝 

 イモには芋・署・諧などがあるが、この句のイモは里芋。芋は雨の後に植えるとよく根付くと言われている。芋は種芋を土に埋める。「畝高くして」にはやわらかい土のこと、「よく育ってよ」という作者の心などが感じられる。

  砂粒に紛ふ花種蒔きにけり  山田 初枝

  庭ぢゆうの埃を立てて鳥の恋 山田 初枝

 これらの句にも注目したが、作者は自ら鍬を持ち土を耕しているらしい。

 

水門に潮ふくれ来る鰆東風   太治 都 

 東風には梅東風、雲雀東風など植物や動物の名前を使ったものがあるが、鰆東風は元々は瀬戸内海の漁師の言葉であろうか。実に上手いネーミングである。鰆という字には春が含まれており、いかにも春の魚らしい字であるが漢字ではなく国字である。この句のいいところは「ふくれ来る」という表現にある。寄せてくる潮をよく見たうえでの表現であり、ふくれ来る春を生き生きと感じさせてくれる。

 

大嵐去れば雪間に猪の跡   為田 幸治 

 大嵐とあるが、これは猛吹雪である。猛吹雪が去った後は晴れた朝であっただろうか。遠い山中ではなく、家の近くの畑か藪と思われる。そこに猪の跡が見られたという。「雪間」には①雪の止み間、②雪が解けてところどころ見える地面と二つの意味があるが、この場合は①の意味である。また、跡とは足跡であろうか、転がった後であろうか。新しく輝く雪が目に飛び込んでくる。そういえば、

  闘うて鷹のゑくりし深雪なり   村越 化石

がすぐに思い出された。

 

這ひながら受くる福豆鬼の豆   度山 紀子 

 節分の豆撒きの様子が上手く描かれている。いいところは「這ひながら」という言葉の斡旋である。家庭の豆撒きではなく、神社かお寺が想像される。這いながら豆を受けているのは子供とも考えられるがこの句の場合は、大人それも爺さん・婆さんとみる方が自然であろう。勿論、作者自身であってもかまわない。

 

陶土搗く唐臼の音蕗の薹   児玉 明子 

 唐臼は添水を巨大化したものと思えばいい。水の力で動くのは杵の方で、臼には陶土や陶石が入れられており、その杵で砕かれてゆく。伊万里や小鹿田(おんだ)焼の里で見たことがあるが、なかなかに迫力のあるものである。結構大きな音で、ドスン、ドスンと陶土を搗いている。この句、その「音に励まされながら蕗の薹が出てきているよ」と言っているように感じられる。

 

寒明の堆肥にレーキ深く刺し   本木 紀彰 

 「深く刺し」という言葉に力強さとやる気が感じられる。いよいよ農作業の始まる時期なのだ。それは「寒明」という季語によって分かる。作者の体に染みている季語である。

  遠く剪定梯子掛けにけり   本木 紀彰

 なんでもないような句であるが、「峯遠く」にいつも見慣れている春の遠山が窺える。

 

次の句にも触れたかったが紙数が尽きてしまった。

春の蠅新幹線の中を飛ぶ      松永 亜矢

屋根替へて前も後ろもまるき山   中岡ながれ

飛び石に片足乗せて雛流し     西村知佳子

将軍のやうなる雉に出合ひけり   渡辺 節子

貼り紙に「春売ります」と花屋かな  青木 陽子