「雉」北陸地区のブログ

「雉」句会の活動を公開しています

俳句選評シリーズ3

俳誌「雉」6月号より

 

      同人作品評(4月号)   中山 世一

 

 私は若いころから師や先輩たちから写生ということを叩き込まれてきた。そのためか、どうしてもモノに即した句を採ってしまう傾向にある。長い経験から、俳句は勿論写生句やモノ俳句ばかりがいいのではないことは知っている。しかし、五感を通してモノの存在に触れる句、手触りの感じられる句に出会いたいと願っている。それは必ずしも快い、口当たりのいい俳句ではないのである。

 

紅梅のぶつかり合うて咲きにけり   河野 照子

 「ぶつかり合うて」がいい表現だと思った。内容は風に揺られながら芽を出し、蕾が膨らんでくると蕾同士がぶつかり合いながらということであろう。咲いている今もぶつかり合いながらかもしれない。枝と枝、花と花であるがまるで兄弟が競い合い、争いながら成長しているようである。生き生きとした表現であり、梅の木の生命が感じられる。

 

朱の樽に一杓づつのお水取   栗原 愛子

 タイトルに善宝寺とあるから、ネットで調べてみた。立春恒例の行事としてお水取りが行われている。したがってこの句の「お水取」は東大寺二月堂のお水取りではない。それは「朱の樽」という言葉からも予想された。でも山形県鶴岡市地方では立春の立派な季語なのであろう。このように地方独特の季語があり、それは俳人協会の『○○吟行案内』などでも紹介されている。このような地方独特の季語や方言は俳句においても大事にしてゆきたいものである。この句「一枚づつの」という表現により二月堂と違って、多くの人が参加できる行事であることがわかる。

 

伊勢海老を裏返しては商へり   古岡 美惠子

 面白い句である。この句の眼目は「裏返しては」という表現にある。モノをよく見ている。この表現により、伊勢海老ばかりでなく、売っている人の表情や態度、場(おそらく年の市)の雰囲気もよく分かる。詳しく言われてい くても読者がこのように想像できる句はいい句である。

体毛を光らせ蜘蛛の凍るかな  古岡 美惠子

同じ作者の句であるが、この句にも作者の目が感じられる。

 

早梅や父母に挟まれ二児の墓  森 恒之

 哀れを感じさせてくれる句である。「二児の墓」とあるから、幼くして亡くなったこの父母の子供であろう。亡くなったのは戦争か病気かは分からないが...。この句の父母はおそらく作者の父母であり、幼児の墓は兄弟なのかもしれない。「早梅」という季語からはあるすがすがしさも感じられるから、いろんな苦労はあったがこの父母は幸せな一生を送ったのであろう。鎌倉・寿福寺の虚子の墓は白童子(虚子四女)、紅童子(虚子の孫娘)という小さいころに亡くなった虚子の子と孫の墓に挟まれている。

 

雪しまき防災無線切れぎれに  新谷 亜紀

 雪国の様子がまざまざと分かる句である。今年の冬、ニュースで雪国の暴風雪が伝えられた。防災無線は災害通報のために各家庭に設置されているものであろうか。私の実家(高知県)にも津波のためのこのような無線装置が置かれている。その装置に雑音が入ったり、切れぎれに音が聞こえたりするのである。大雨の時でもそうであるが、雪 のしまく時はもっとひどいに違いない。素直に事態を叙しているが、雪国の生活の一面がよくわかる句である。

 

真白な蕾のままや菊枯るる   寺田 記代

 この句にも、しっかりとモノを見ているな、と感心した。 私も実際にこんな景を見たことがある。菊は冬になると蕾をつけたまま枯れるのである。この句は「真白な」という言葉によって、まだ若い命、純真ということなどを読者は思う。作者は必ずしもそんなことは意図せず、ただシンプルに作っていると思うが、単にモノに語らせているところがいいのかもしれない。

 

一筋の草噛んでゐる氷柱かな  源 伸枝

 細かい描写のように思われるかもしれないが、表現はそうであるとしても内容は深い。自然の摂理が淡々と叙されているが、地球の自然そのものが生き物のように感じられる。この一筋の草は青々とした草に違いない。でないと目につきにくいし、生きている感じがしない。氷柱は小さな氷柱だと思う。一本の草を噛む(凍って挟み込む)のだか ら大きな氷柱とは思えない。冬の早朝などには草つららという草の先にチョンとできる氷も見ることができる。

 

ふつふつと湯気まで青き七日粥  山岸 昭子

 七草粥の句である。この句のいいところは「湯気まで青き」という表現にある。おそらく本当に湯気が青いわけではなくそう感じたのであろう。それは鍋に入れた七草が青々としているからである。作者はその青を強調したかったのに違いない。「食べ物の句を作るときは、食欲をそそるように作るべきだ」とある人は言っている。まさにこの句は食欲をそそってくれる。

 

倶利伽羅の闇の初護摩太鼓かな  海野 正男

 木曽義仲と平家の戦いのあった倶利伽羅峠、牛の角に松明をつけて平家の方へ追いやったという合戦は有名である。今は高速道路で行っても倶利伽羅という地名が出てくるし倶利伽羅という駅もある。初護摩だから新年の護摩で ある。倶利迦羅不動寺護摩であろう。この句、「倶利伽羅」という地名がよく働いている。闇に響く護摩の太鼓や音声は倶利伽羅峠の合戦を思わせてくれる。

 

凍土へ踏み出す鶏の爪太し  大葉 明美

 「爪太し」がいい発見。鳥は恐竜の子孫と言われているが、その足や爪を見ると納得できる。凍土だから凍って固い土にむんずと鶏の爪が踏み出したのだ。いかにも力強い。爪の先は固い凍土に食い込んでいるのだろう。

合掌し耕土を均す鍬始  大葉 明美

同じ作者の句、農業に従事している人だろうか。「合掌し」という言葉に心から土に感謝していることが読み取れる。

 

四尺の雪の真青に透けてをり  生田 章子

 私は高知県育ちで、いまは千葉県に住んでいる。だから雪国の経験がない。我々が雪を美しいなどというと雪国の人達に怒られるという話をよく聞く。さて、この句の作者は富山県、雪国の人である。私はこの句の「雪の真青に透けてをり」を美しく神秘的と感じたのだが、本当はどうなのであろうか。作者は恐ろしいと感じているのであろうか、それとも青く透けてきて―ということは春が近くなってきて―安堵しているのであろうか。

 

粉雪の乗りたる葉書手渡され  山崎 和子

 優れた写生句だと思った。手触りの感じられる句である。葉書を渡してくれたのは家人であろうか、それとも郵便配達人であろうか。「粉雪の乗りたる葉書」だから郵便受けから出す、もしくは手渡される、そのちょっとした間に葉書に粉雪が乗ったのだ。それを見逃さずに一句にまとめた腕前は評価されていいだろう。しっかりとモノを見ていれば句ができるわけではない。本当に句にすべき焦点を切り取らなくてはならない。また、そうしたからいい句になるわけでもない。いい言葉を授からなくてはならない。いい言葉を授かってもまだ句は完成しない。無駄な言葉をそぎ落とさなくてはならないのだ。しかし、この句はそんな難しいことは抜きにすっとできた句のように思われる。本当はそんな句が一番いいのだろう。

 

次の句にも触れたかったが紙数が尽きてしまった。

 

厳寒や手の切れさうな空のあを 川口 崇子

笹子鳴く生傷舐めて竹細工   後藤かつら

群猿の足跡埋むる雪時雨    為田 幸治

「雉」三十周年記念特集号より

平成27年8月号

「雉」三十周年記念特集 諸家近詠

 

 茨木 和生 「運河」主宰

雉走り飛ぶここからは口吉野

雉鳴けり峠を越ゆる旧道に

飛び立ちし雉のひかりとなりにけり

 

 大串 章 「百鳥」主宰

夏帽子蝶とまらせて莞爾たり

サングラス外し麒麟を見上げをり

万緑の山稜昭和振り返る

 

 大坪 景章 「万象」主宰

牡蠣殻の山の春光三十年

石垣のつづく奥より雉子の声

江田島の桜を撫づる刀自かな

 

 大峯 あきら 「晨」代表

三十の朴の大輪よく見ゆる

天辺に昼の月あり雉子の声

雉子鳴けば千早の嶮に木魂かな

 

 千田 一路 「風港」主宰

片頬に目薬這はせ今朝の秋

無造作に受けし釣銭雲は秋

遠山の襞際やかに水の秋

 

 鷹羽 狩行 「狩」主宰

雉はこれ犬・猿はどれ星月夜

広島や紅白きそふ夾竹桃

先代の名乗りさはやか「林徹」

 

 辻田 克巳 「幡」主宰

走馬灯走りて何に追ひ付くや

蟬声の百千であり一つなり

念入れて老いむと思ふ土用餅

 

 宮田 正和 「山繭」主宰

雉の声聞きたしと来る朝歩き

雉鳴いてよりの静寂を黙しゐる

欣一の声徹の声朝雉子

 

 山本 洋子 「晨」編集長

朝風のしきりに吹いて雉子の声

山かげに立ちし幟の紋所

本棚をかたはらにして夏来たる

 

 八染 藍子 「廻廊」主宰

号令の雉の一声野火馳する

記念日の定礎を囲み踊花

万緑や揺られて締まるかづら橋

 

俳誌「雉」5月号より

「雉」誌に掲載されておりましたが、二重投句の問題があり、句会報も、「雉」誌の掲載を待ってからとなりました。

句会報をお待ちの皆様へ、「雉」誌掲載の北陸地区の方々の作品をご紹介いたします。

 

   【同人作品】

白雉集

   春近し   小林 亮文

連峰の尾根くつきりと春近し

放し飼ふ鶏の下萌ついばめり

見えねども土盛り上がる蕗の薹

剱岳雲間を白き冬の月

雪解風苔の色濃き旧庄屋

底の鯉上を窺ふ四温かな

 

   春吹雪   佐瀬 元子

山茶花咲き継ぐなかを逝きたまふ

春灯遺影のまなこ潤みをり

野辺送り春の吹雪となりにけり

雪折れの伐りたる幹の太かりき

春めくや廂の影の深くなり

引く前の鴨ゆつたりと流れけり

 

   山茶花   福江 ちえり

撓ひたる竹の凍てをり峠越え

  悼 青木和枝先生

山茶花や永久の眠りに薄化粧

春の雪御堂を出づる柩かな

名を呼んで柩を送り春の雪

春雪の靴に沁みゐる野辺送り

足跡に足跡重ね春の浜

 

  枝垂れ紅梅   中山 ち江

コロナ禍へしつかりと撒き節分会

日脚伸びちよこんと椅子に孫座る

御堂に射す春の光りの美はしき

ふつくらと枝垂れ紅梅墓所に咲き

父と子とそつと涅槃図掛けゐたる

がたがたと雨風強し彼岸前

 

飛翔集

   料峭   度山 紀子

料峭やワインセラーに一人づつ

隧道の一すぢ光り春動く

這ひながら受くる福豆鬼の豆

早春や滾る寒雉の釜の鳴る

師は逝きぬ聖(セント)バレンタインの日

楚々と咲く金縷梅の木を撫づるかな

 

   帰る鶏   山岸 昭子

  青木和枝先生 追悼

山襞にひかりを撒きて帰る鳥

地に拾ふ実のふくらめり今日雨水

風花や野に五位鷺のみじろがず

二人きりの姉妹となりて梅見かな

雪しろのひかり溢るる野道かな

雪解けて庭のをちこちゆうきん花

 

   白梅   海野 正男

白梅に結ぶ合格祈願絵馬

如月の青竹を割る神事かな

躙り口開けてとほせる春の風

立春大吉棟上の木の香り立つ

きらめける涅槃の雪にみまかりぬ

白梅やまこと小さき骨の壺

 

 名残の雪   本多 静枝

をちこちの雪吊取れて空広し

春暁の雲間に霊峰ひかりをり

産土の匂のとどき木の芽風

倶利伽羅の名残の雪や通夜詣

空耳か師の呼ぶ声や二月尽

苔むせる磴の百段紅椿

 

  梅二月   宮崎 惠美

塔尾陵へ石段六十寒椿

権六の筆の極細腰障子

試飲して少し酔ひたり梅二月

化粧水顔に噴霧の春来る

如月や紫水晶贈らるる

春の日や金沢城の海鼠壁

 

青藍集

   早春   生田 章子

立春や干し場に仄か日の匂ひ

春立つや靄立ちこめて散居村

両袖を広げ威を張る男雛

くつきりと犬と靴あと雪解径

手紙出し戻る坂道梅の花

弟の遺影新し冴返る

 

   山茶花   福江 真里子

ストーブの火のとろとろと法話かな

朗朗と続く読経や春障子

沖と空淡く明るき二月かな

山茶花を雨の打ちゐて旅立てり

笹の中椿の紅のちらほらと

山茶花の白凛として別れかな

 

  独活洗ふ   後藤 かつら

蜆舟湖から湖へ影を曳き

夕鐘や川門に洗ふ鶯菜

暖かや鯉の群がる麩の一つ

牧開水平線のかち色に

春浅き荒鋤の土湯気立ちて

独活洗ふ落人村の外流し

 

  地虫出づ   辻江 恵智子

春の雪霏々と喪服の裾までも

ふるさとの風の匂や地虫出づ

継ぎ接ぎの縄文土器や冴返る

校庭に声のちりぢり山笑ふ

膝に抱く猫の欠伸や梅匂ふ

梅東風や俯瞰の海は縹色

 

   【会員作品】

紅頬集

大雪や日ごと隣家の隠れゆき   大上 章子

たびたびの手指消毒罅われす

残雪や歩道の土の香りたち

記念樹の大雪に耐へ立ちゐたり

早春の日を弾け過ぐ新幹線

 

待つ春の黒々と見ゆアスファルト  志賀 理子

真夜中に一人目覚めて月おぼろ

公魚の連なり上がる湖上かな

列島の天気図覆ふ春の雪

 

初御籤の大吉失くし大慌て   伊藤 佳子

立春の小枝の先や光満ち

はうれん草茹でし緑のまぶしかる

駐車場の高き残雪黒くなり

 

能登の浪まだ荒し藪椿   古西 純子

るいるいと女系家族や雛祭

海原の果ては半島霾ぐもり

 

 

 

 

俳句選評シリーズ 2

俳誌「雉」5月号より

   同人作品評(3月号)  中山 世一

 

遠く近く沼舟見えて蒲団干す    永田 由子

作者は船橋市の方であるからこの沼は印旛沼であろうか、手賀沼であろうか。どこと限定する必要もないが、沼の近くに何軒か家がある、そういう水辺を想定した。その家は作者の居る側にあり蒲団が干されている。今、干す動作をしていると取ってもいいだろう。舟は沖に散らばり岸に繋がれている。冬景色であるがどこか春が近いのどかな景である。「蒲団干す」という季語は風もあまりない、日当りのいい日を内部に持っているから沼も静かであろう。「沼舟」という言葉も柔らかさを感じさせてくれる。

  

冬耕や暮れてなほ打つ鍬の音   永田 由子

この句、一読したときはよく分からなかった。それは「や」で一旦切って「暮れてなほ打つ鍬の音」と読んだからである。したがって鍛冶屋が鍬を打っているのかと思った次第。 でもやはりおかしいと思いなおして、鍬の音は耕しの音だと気づいた。確かに「田を打つ」「畑を打つ」とはよく言うが、まだ何分かは鍬の修理かななどと思う気持ちが残っている。「や」の使い方は難しい。俳句は読者にサービスをする必要はないが、分かり易くあってほしい。

 

朝まだき新聞までの雪を掃く   内藤 英子

南国の土佐育ちで、千葉県に住む私には大雪の地の生活経験がない。この冬は北海道や北陸は大雪であったと度々報道されたが、その大変さを体で感じてはいない。この句、作者は広島の人であるが、雪の朝の大変さを肌で感じるように読む者に伝えてくれる。「新聞までの」という簡潔に叙された表現にかえって心が惹かれる。玄関から新聞受けまでにか小道があるのだろう。新聞を取るためにでさえ、雪を掃いてゆかなくてはならなかったのである。 雪の朝の大変さがよく出ている句である。

 

せきれいの羽音聞こゆる寒さかな   林 さわ子

 せきれい、すなわち石叩きは秋の季語であるが、この句では冬の石叩きである。私の家の近くでもよく石叩きは見かけるが、いまだにその羽音を聞いたことがない。小さな鳥であるから本当に小さな音であろう。作者はその羽音を聞いたのである。したがってこの寒さはしんしんとした静かな寒さである。人の心が研ぎ澄まされるような寒い朝、そして何でも受け入れるという心がなければこの音は聞こえまい。感覚の鋭い句である。このほかにも

 海神や冬菜の太る詣で道

 あをあをと元旦の藪濡れゐたり

など力作が見られた。

 遠くまで行く冬川の水鏡

ところでこの句、遠くまで行くのは作者であろうか、川の水であろうか、水鏡であろうか。鑑賞に迷いの生じた句である。

 

裏山に梟の声坊泊り   梅園 久夫

 子供の頃は八幡様の杜で鳴く梟の声をよく聞いたが、最近ではあまり耳にしない。よっぽど山奥に行かないといないのだろう。あの声は小さい頃には不気味に思えたが、大人になってみると不思議な奥深い音に感じる。「坊泊り」とあるから作者はどこか旅の宿で聞いたのである。羽黒山か吉野かそれを想像することもまた楽しい。山に包まれた奥深い修業の地の坊を思う。

 

あまびえの絵の油染み焼鳥屋   藤戸 紘子

「あまびえ」のことはよく知らなかったが、コロナ流行のおかげで知ることができた。さすが八百万の神の国日本である。最近はあまびえ飴というのもできており、先日の吟行の時に句友から頂いた。この句、焼鳥屋の壁にあまびえの絵が貼られているのであろう。コロナの影響をまともに受けて商売が苦境に立たされているのは焼鳥屋やおでん屋など一杯飲み屋である。作者はあまびえの絵だけでなく、敏感にその絵についている油染みにも気が付いた。いかにも焼鳥屋にありそうな一点景であるが、焼鳥屋の主人の気持も分かる人間味のある句である。「油染み」がどこか悲しい。

 

枸橘の棘にひかりや寒四郎    藤巻 喜美子

カラタチは蜜柑の仲間であるから常緑樹であるが、なぜ冬に棘が目立つ。少し葉が落ちて隙間ができるのであろうか。結構鋭い棘である。この句、その棘に当たる光りを詠んだ。「枸橘の棘にひかりや」までは省略の効いた表現でいい句であると思った。しかし季語「寒四郎」でちょっと引っかかった。寒四郎は寒に入って四日目のことであるが、擬人化である。同じ寒の季語でも作者はなぜ寒四郎を持ってきたのであろうか。もっとストレートに寒を表現してもよかったのではないだろうか。

 

大屋根の雪崩に軒の埋もるなり   中山 ち江

これは雪国の句。「大屋根の雪崩」だから、お寺などの 大きな屋根から雪が雪崩れてきたのだろう。その雪がどさどさと軒の埋もれるほど落ちてきたのだ。あるいは同じ建物でなく、すぐ前か隣の別の建物かもしれない。コトを直接的に言い表しており、迫力のある句である。「なり」にも作者の気持ちが込められていて、あきれている様子が窺われる。

 

冬暖か河津のさくら苗届く   高見 宜明

前書きに「西日本豪雨被災地」とある。「冬暖か」だから冬の初めか、終わりごろだろう。知り合いか友人から河津桜の苗が届いたのだ。作者が被災者かどうかは分からないが、被災者と同じ目線で捉えられている。この句、何といっても「河津のさくら」がいい。河津桜は早咲きの桜、どこよりも早く花が開く。その苗を届けるということは、 春=希望を届けるということでもあろう。もし作者が被災者であれば十分に送り手の意を汲み取っている。

 

ぺらぺらと風に揺れをり古暦    栗栖 英子

「ぺらぺら」というオノマトペを使ってじつにうまく古暦を表現した。まさにモノ俳句であるが、作者の言わんとすることがよく伝わってくる。まず、手触りとしての薄さ軽さである。古暦だから恐らく一枚しかないのだろう。また、この一年間を過ごした作者の自嘲気味な反省も見えてくるようである。

 

亡き夫に遍路宿より賀状来る    山田 智子

今は亡き人に手紙が来るという句は時々見かけるが、この句のいいところは「遍路宿より」にある。かつて作者はご主人と一緒に遍路巡りをしたのであろう。その時泊った宿から、年賀状が来たのである。四国遍路のお接待の心が垣間見られる句である。

 

サンタクロース来ると窓開け子ら眠る   中川 章

昔はサンタクロースは煙突から来るものと決まっていた。では煙突のなくなった現代の子はどこから来ると教えられているのであろうか。誰にも教えられず、窓から来るに違いないと考えた、けなげな子供の寝顔が目に浮かぶ。

 

十二月どんと浅間の近づきぬ    市川 好子

十二月の浅間山はもう雪山であろう。そうでなくても深秋から初冬にかけては空気が澄んでいる。この句、思い切って「どん」という言葉を使って成功した。また「近づきぬ」もいい表現である。まさに目の前にどんと浅間山が近づいて見えるのだ。

 

夜神楽へ毛布抱へて集ひたり   鷹野主 政子

私は神楽は見たことはあるが、夜神楽を見た経験はない。この句、「毛布抱へて」に実感がある。夜の寒さを知っており、夜神楽の長丁場をわが身を毛布にくるんででも見るという覚悟が見える。

 

俳句選評シリーズ 1

 

「雉」4月号掲載

                同人作品評(2月号)   中山 世一

 

 今月からこの欄を担当することとなりました。しかし、 ほとんどの人のことをよく知りません。そのことが評をするのには好都合であるかもしれませんが、的外れなことを書くことがあるかもしれません。その点はどうかお許し頂 きますようお願いします。

 さて、書くということは自分の恥をさらけ出すということでもある。そのことを知りつつ筆を進めてゆきたい。〈雉笛集〉から始め、同人の各欄より順次少しずつ句を選んで 評をしてみたい。

 

裏山の放つ明るさ二月来る   水野 征男

 

 〈雑笛集〉は「田島和生選」とないから、自選句の欄であり、 同人の中でもベテランの方々であるとお見受けする。この 句「放つ明るさ」という表現に注目した。よく見られるの は「輝く」とか「明るき」という表現で簡単に納めてしま うこと、しかしそれではありきたりの表現となり、句はつ まらないものとなってしまう。作者は裏山の木々や色など の明るさを見て、そこに自然の移り変わり、躍動を発見し たのであろう。二月は浅春、その浅春が躍るごとくやって きたのだ。それは同時に作者の春を待つ心の弾みでもある。この心が「放つ明るさ」という言葉を見つけ出したのに 違いない。心の動きのよく出た佳句であると思う。また、この作者は二月号にきちんと二月の句を出している。虚子のように一年間は寝かした句を出しているのであろうか。

青軸の心惹かるる白き梅 この句も早春の句であるが、「心惹かるる」という言葉 がちょっと気になった。この言葉により、かえって青軸 (栽培種の梅の名)に寄せる作者の気持ちが、薄れてしまっ たように感じられる。

 

流れつつ澄む泥水や池普請   大前 貴之

 

 池普請の水が水路を伝って外の方に流れているのであ ろう。作者はその水をじっと眺めていたに違いない。泥 水があるところまで来たら澄んできたというのではなく、 泥水は流れながら少しずつ上の方から澄んできているこ とに気づいたのである。泥水を静的な捉え方でなく、動 的な捉え方をした優れた句であると思う。切字「や」も よく効いていて、切れのいい句である。モノをじっと見 る訓練ができている作者であると思った。

 

仇討ちのごと落葉掻く一日かな  久保 方子

 

 比喩は詩の大きな武器であるが、なかなか使い方が難しい。比喩でなくても表現できるところに比喩を使い失敗する例や意外性が小さく比喩が生かされない例が多い。比喩を上手に使ったのは茅舎であるが、比喩が上手く使えるか どうかは作者の技量を示す物差しである。この句は、比喩で成功している。仇討と落葉掻きの間には普通想像できない大きな違いがあり、その飛躍に読者は驚かされてしまうからである。かく言う私もこの比喩には舌を巻いた。この句、熊手を刀のように振り回しているというのではなく、 仇討に必死である形相や心の葛藤などを言いたかったのであろう。そう解するほうがこの句にかなうように思える。

 

担ぎ女の捲くマフラーの葱臭き   杉本 尚子

 

 最近はあまり見かけなくなったが、私が通勤していた常 磐線では早朝沢山のおばさんやお婆さんたちが、大きな荷 物を担いで茨城の方から東京都内へ野菜や餅などを売りに 来ていた。この句、恐らくはそういった担ぎの人たち、今 やかなりのお歳のおばさんであろう。マフラーなどもくた びれたものに違いない。作者はそのマフラーに葱の香を感 じとった。大根や白菜や汗の匂いもあったかもしれない。 しかし作者は「葱」と言う言葉を選んだ。この言葉により 担ぎ女の生きた姿が目に浮かんでくる。担ぎ女は葱の匂いや体裁などは気にしないで、いや誇りをもってこの仕事を - 続けているのである。季語「葱」の働きの大きな句である。

 

聖堂の明りに踊る冬の塵   福江 ちえり

 

 東京のお茶の水には湯島聖堂という日本の聖堂とニコライ堂というキリスト教の聖堂があるがこれは余談。さてこの句、聖堂という神聖な所に塵という一見場違いなモノを持ってきた。しかしお寺であろうが教会であろうが塵や埃 がよく溜まっていることは周知のことである。それは人だかりが多いからであり、毎日の掃除の手が届かないからである。だから毎年煤払いが必要なのだ。そういう事実に目 を背けないでこの作者は句を作った。しかもその塵は堂内 で舞っているのである。それは冬日だから発見できたのか もしれない。冬は太陽の高度が低いため、日差しが奥まで届くからである。日差しの中に浮かぶ塵を踊っていると見たのは面白い。

 

発酵の蒅(すくも)湯気立つ初しぐれ   岡田 栄子

 

 作者は藍作りのことをよく知っている人であるらしい。 徳島市の周辺は江戸時代には藍の大生産地であり、今でも 藍を作っているところがある。藍は真夏に葉を刈り、いろ いろ加工して秋ごろから発酵させる。そして完成するのが 染であるが、この句は完成前の状態の薬を詠んでいる。藍 の発酵を促すためには筵を被せ、何度も水を打つ。そのたびに発酵熱のため藻々たる湯気が上がる。外は冷たい時雨、内は療々たる湯気である。生きた藍作りが読み取れる作品である。

 初しぐれ薬に深く熊手入れ

この句も同時にできた句であろう。水をかけた藍(蒅)はむらなく熊手でよく混ぜなくてはならないからである。

 

濡れ縁を弾け飛び出す干大豆   今田 昌克

 

 日の当たる縁側に探か筵を置き、大豆を干していたのである。日が当たってくると豆の莢が捩れ、ぱちんと音がして自然に大豆が飛び出してくる。作者が豆を干していたのかそういう現場に偶然通りがかったのかは分からないが、 興味を持って句を作ったのであれば後者と解したほうがよさそうである。また、余談であるがすべての豆がこのように弾け出るのではない。そのためあとで筵の上で干した豆の莢を砧やビール瓶で叩くのである。

 

外つ国の大きな靴の牡蠣割女   馬木 芳子

 

 外国から出稼ぎで日本に働きに来ているのであろう。牡 蠣割りなどの辛くて強い匂いのするような仕事は今や日本 の若者はやりたくないのであろう。したがってこんな仕事 をするのは老人か外国の人である。作者は呉の人であるか ら牡蠣の生産現場のことはよく知っている。この句の良さ は働いている女性の「大きな靴」を発見したことにある。大きな靴の人とは大柄な人である。辛い仕事には違いないが、祖国に残してきた家族のためにこの女性は体を揺すりながら一生懸命働いているのである。その姿が見えるようである。

 

音のよき算盤弾き年送る   迫田 邦子

 

 算盤の上手な人はそれを弾く音もいい。昔はよく使われた算盤であるが、今やほとんどが電卓かコンピューターに代わってしまった。それらも便利には違いないが、やはり商家では算盤の音を聞きながら、年を送りたいものである。算盤によき音を感じる作者は算盤とはいいものだ思いながら算盤を愛用しているに違いない。

 

次の句にも触れたかったが、紙数が足りなかった。

 

影長くなるまで鴨を見てみたり   佐瀬 元子

大蛇にも御捻りのとぶ村芝居    黒田 智彦

散紅葉賽銭箱にすべりこみ     寺田 記代

小六月小さくなりし肩を揉み    海生 典代

籠を編む竹の波打つ冬日向     山本 逸美

しばらくはびくに入れけり模植の実 東田 基子

印結ぶ指先の反り返り花      市川 好子

 

尚、主宰の俳句は、「俳句燦燦」において連載されておりますので、

雉ホームページの「今月の雉」をご覧ください。

http://www.kijihaiku.org/kongetsu.html