「雉」北陸地区のブログ

「雉」句会の活動を公開しています

俳句選評シリーズ 1

 

「雉」4月号掲載

                同人作品評(2月号)   中山 世一

 

 今月からこの欄を担当することとなりました。しかし、 ほとんどの人のことをよく知りません。そのことが評をするのには好都合であるかもしれませんが、的外れなことを書くことがあるかもしれません。その点はどうかお許し頂 きますようお願いします。

 さて、書くということは自分の恥をさらけ出すということでもある。そのことを知りつつ筆を進めてゆきたい。〈雉笛集〉から始め、同人の各欄より順次少しずつ句を選んで 評をしてみたい。

 

裏山の放つ明るさ二月来る   水野 征男

 

 〈雑笛集〉は「田島和生選」とないから、自選句の欄であり、 同人の中でもベテランの方々であるとお見受けする。この 句「放つ明るさ」という表現に注目した。よく見られるの は「輝く」とか「明るき」という表現で簡単に納めてしま うこと、しかしそれではありきたりの表現となり、句はつ まらないものとなってしまう。作者は裏山の木々や色など の明るさを見て、そこに自然の移り変わり、躍動を発見し たのであろう。二月は浅春、その浅春が躍るごとくやって きたのだ。それは同時に作者の春を待つ心の弾みでもある。この心が「放つ明るさ」という言葉を見つけ出したのに 違いない。心の動きのよく出た佳句であると思う。また、この作者は二月号にきちんと二月の句を出している。虚子のように一年間は寝かした句を出しているのであろうか。

青軸の心惹かるる白き梅 この句も早春の句であるが、「心惹かるる」という言葉 がちょっと気になった。この言葉により、かえって青軸 (栽培種の梅の名)に寄せる作者の気持ちが、薄れてしまっ たように感じられる。

 

流れつつ澄む泥水や池普請   大前 貴之

 

 池普請の水が水路を伝って外の方に流れているのであ ろう。作者はその水をじっと眺めていたに違いない。泥 水があるところまで来たら澄んできたというのではなく、 泥水は流れながら少しずつ上の方から澄んできているこ とに気づいたのである。泥水を静的な捉え方でなく、動 的な捉え方をした優れた句であると思う。切字「や」も よく効いていて、切れのいい句である。モノをじっと見 る訓練ができている作者であると思った。

 

仇討ちのごと落葉掻く一日かな  久保 方子

 

 比喩は詩の大きな武器であるが、なかなか使い方が難しい。比喩でなくても表現できるところに比喩を使い失敗する例や意外性が小さく比喩が生かされない例が多い。比喩を上手に使ったのは茅舎であるが、比喩が上手く使えるか どうかは作者の技量を示す物差しである。この句は、比喩で成功している。仇討と落葉掻きの間には普通想像できない大きな違いがあり、その飛躍に読者は驚かされてしまうからである。かく言う私もこの比喩には舌を巻いた。この句、熊手を刀のように振り回しているというのではなく、 仇討に必死である形相や心の葛藤などを言いたかったのであろう。そう解するほうがこの句にかなうように思える。

 

担ぎ女の捲くマフラーの葱臭き   杉本 尚子

 

 最近はあまり見かけなくなったが、私が通勤していた常 磐線では早朝沢山のおばさんやお婆さんたちが、大きな荷 物を担いで茨城の方から東京都内へ野菜や餅などを売りに 来ていた。この句、恐らくはそういった担ぎの人たち、今 やかなりのお歳のおばさんであろう。マフラーなどもくた びれたものに違いない。作者はそのマフラーに葱の香を感 じとった。大根や白菜や汗の匂いもあったかもしれない。 しかし作者は「葱」と言う言葉を選んだ。この言葉により 担ぎ女の生きた姿が目に浮かんでくる。担ぎ女は葱の匂いや体裁などは気にしないで、いや誇りをもってこの仕事を - 続けているのである。季語「葱」の働きの大きな句である。

 

聖堂の明りに踊る冬の塵   福江 ちえり

 

 東京のお茶の水には湯島聖堂という日本の聖堂とニコライ堂というキリスト教の聖堂があるがこれは余談。さてこの句、聖堂という神聖な所に塵という一見場違いなモノを持ってきた。しかしお寺であろうが教会であろうが塵や埃 がよく溜まっていることは周知のことである。それは人だかりが多いからであり、毎日の掃除の手が届かないからである。だから毎年煤払いが必要なのだ。そういう事実に目 を背けないでこの作者は句を作った。しかもその塵は堂内 で舞っているのである。それは冬日だから発見できたのか もしれない。冬は太陽の高度が低いため、日差しが奥まで届くからである。日差しの中に浮かぶ塵を踊っていると見たのは面白い。

 

発酵の蒅(すくも)湯気立つ初しぐれ   岡田 栄子

 

 作者は藍作りのことをよく知っている人であるらしい。 徳島市の周辺は江戸時代には藍の大生産地であり、今でも 藍を作っているところがある。藍は真夏に葉を刈り、いろ いろ加工して秋ごろから発酵させる。そして完成するのが 染であるが、この句は完成前の状態の薬を詠んでいる。藍 の発酵を促すためには筵を被せ、何度も水を打つ。そのたびに発酵熱のため藻々たる湯気が上がる。外は冷たい時雨、内は療々たる湯気である。生きた藍作りが読み取れる作品である。

 初しぐれ薬に深く熊手入れ

この句も同時にできた句であろう。水をかけた藍(蒅)はむらなく熊手でよく混ぜなくてはならないからである。

 

濡れ縁を弾け飛び出す干大豆   今田 昌克

 

 日の当たる縁側に探か筵を置き、大豆を干していたのである。日が当たってくると豆の莢が捩れ、ぱちんと音がして自然に大豆が飛び出してくる。作者が豆を干していたのかそういう現場に偶然通りがかったのかは分からないが、 興味を持って句を作ったのであれば後者と解したほうがよさそうである。また、余談であるがすべての豆がこのように弾け出るのではない。そのためあとで筵の上で干した豆の莢を砧やビール瓶で叩くのである。

 

外つ国の大きな靴の牡蠣割女   馬木 芳子

 

 外国から出稼ぎで日本に働きに来ているのであろう。牡 蠣割りなどの辛くて強い匂いのするような仕事は今や日本 の若者はやりたくないのであろう。したがってこんな仕事 をするのは老人か外国の人である。作者は呉の人であるか ら牡蠣の生産現場のことはよく知っている。この句の良さ は働いている女性の「大きな靴」を発見したことにある。大きな靴の人とは大柄な人である。辛い仕事には違いないが、祖国に残してきた家族のためにこの女性は体を揺すりながら一生懸命働いているのである。その姿が見えるようである。

 

音のよき算盤弾き年送る   迫田 邦子

 

 算盤の上手な人はそれを弾く音もいい。昔はよく使われた算盤であるが、今やほとんどが電卓かコンピューターに代わってしまった。それらも便利には違いないが、やはり商家では算盤の音を聞きながら、年を送りたいものである。算盤によき音を感じる作者は算盤とはいいものだ思いながら算盤を愛用しているに違いない。

 

次の句にも触れたかったが、紙数が足りなかった。

 

影長くなるまで鴨を見てみたり   佐瀬 元子

大蛇にも御捻りのとぶ村芝居    黒田 智彦

散紅葉賽銭箱にすべりこみ     寺田 記代

小六月小さくなりし肩を揉み    海生 典代

籠を編む竹の波打つ冬日向     山本 逸美

しばらくはびくに入れけり模植の実 東田 基子

印結ぶ指先の反り返り花      市川 好子

 

尚、主宰の俳句は、「俳句燦燦」において連載されておりますので、

雉ホームページの「今月の雉」をご覧ください。

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